いま振り返る「ソ連旅行」が不自由だった時代。ロシアはあの頃に戻ってしまうのか

テレックスとバウチャーと

ロシアのウクライナ侵攻により、ロシア旅行は当面不可能になりました。日本人がロシアを自由に旅行にできるようになったのは最近のことですが、「ソ連」時代はもっと大変でした。

以下は、1990年のソ連旅行を振り返る『昔話』です。

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ソ連のビザ取得

筆者の手元には、『地球の歩き方 ソ連』の90~91年版があります。奥付によると発行日は1989年11月20日。ソビエト連邦の崩壊が1991年12月ですので、その2年前に刊行されたものです。

地球の歩き方ソ連

本書には、ソ連のビザ取得について、こう書かれています。

「まず、入国から出国までの日程とルートを決め、次にそのスケジュールに沿って日本の旅行代理店からソ連の国営旅行社(インツーリスト)に予約を流してもらう。そして、ソ連側から予約OKの返事が来たら、代理店にお金を支払う。代理店はお金を受け取ると、〔中略〕バウチャーを作る。そして、ソ連大使館がこの書類を確認してヴィザを発給する」

そのビザの取得には、以下の用紙が必要でした。

「①アンケート(申請書)②英文略歴書③写真4枚④パスポート⑤インツーリストが予約を受けた旨を送信してきたテレックスのコピー⑥旅行社の作成したバウチャー」

これを揃えて、東京のソ連大使館か、大阪、札幌の総領事館を訪れてビザを申請するわけです。ビザ申請は「事前申請」「本申請」「受け取り」の手順があり、大使館・領事館に3回足を運ぶ必要がありました。

選択できる宿泊施設は高級ホテルのみ、スケジュールは一度組んでしまうと変更は難しいなどの厳しい制約もあり、旅行ガイドを読むだけでうんざりする、というのがソ連旅行でした。

実際には、ソ連を得意とする旅行代理店が、旅程作成から列車・ホテル予約、ビザ申請まで代行していました。お金を惜しまず、そうした会社に全部任せてしまえば簡単ですが、個人で手配するとなると手がかかりました。

筆者は、1990年に旅行代理店に予約のみ依頼しバウチャーを取得したうえで、自分でビザを申請してみました。大阪の領事館に個人でビザを取りに来る人は少ないらしく、明るい応接室に招かれ、いかついロシア人担当者がニコニコしながら対応してくれたことを覚えています。

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ようやく自由旅行が

ビザ取得にバウチャーが必要というロシアの制度は、ソ連崩壊後も維持され、枠組みそのものは現在まで残されています。

それでも、ビザ取得は少しずつ簡素化されてきました。大きな変化があったのは2015年頃で、ホテルの予約なしでバウチャーが作れるようになりました。

さらに、2017年に極東地域でバウチャー不要の電子ビザが導入され、2021年にロシア全土に拡大される予定でした。これが実現すれば、ロシア旅行でバウチャーが全面的に不要になるはずでしたが、新型コロナなどの影響で、電子ビザの発給は現在停止されています。

とにもかくにも、ソ連崩壊から30年を経て、ロシア旅行は少しずつ自由になってきていたのです。ビザ簡素化の動きと軌を一にして、日系航空会社がロシア路線を強化しはじめ、JALとANAが2020年に成田~ウラジオストク線を開設しました。

ウクライナ侵攻は、こうしたタイミングで起きました。

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ナホトカ航路

話をソ連時代に戻すと、当時はソ連への航空路が乏しく、成田~モスクワ線のほか、新潟~ハバロフスク線が週2便あるだけでした。日本から極東ロシアへ行くには横浜~ナホトカ間に定期航路もあり、夏季を中心に月2回程度運航していました。

ナホトカ航路の価格は、「カテゴリー6」と呼ばれる4人部屋で54,200円。ちなみに、最高級の「カテゴリー1」は135,000円でした。共産圏だというのに、船室は6段階に分かれる階級社会でした。

なお、極東の中心都市と言えばウラジオストクですが、当時は外国人立ち入り禁止でしたので、国際線も国際航路もありません。

ナホトカ航路

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ナホトカは見られず

横浜港からナホトカ港までは2泊3日。到着したナホトカ港は小さく、日本の離島程度の規模の旅客ターミナルです。

ナホトカ客船ターミナル

船着場の数百メートル先にシベリア鉄道の駅が見えるのですが、外国人が歩いて行くことは許されません。バスで運ばれ、そのまま列車に乗せられます。

ナホトカ駅
港から見たナホトカ駅。こんなに近いのに歩いてはいけない。

ナホトカは外国人開放都市とされていましたが、実際には市内を観光する時間はありません。「余計なものは見ずに、さっさと移動しろ」という仕組みに感じられたものです。

ナホトカ駅

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横浜→ワルシャワ20万円

ナホトカからハバロフスクまで列車で1泊かかるので、横浜から3泊かけて、ようやくハバロフスクに到着します。

ハバロフスク

新潟からの飛行機に乗ればもっと早いですし、船が格段に安いというわけでもないので、1990年にもなると、船を使う人は減っていたようです。実際、ナホトカ航路はソ連崩壊とともに、1992年を以て運航を終了しました。

ちなみに、当時の旅費は、ナホトカからワルシャワまでの列車と、ソ連内のホテル9泊で995ドルでした。1ドル150円くらいだったと記憶しているので、約15万円。これに船賃約5万円を加えて、旅費は合計20万円あまりでした。日程は3週間です。

3週間で9泊とは少ないですが、外国人は高級ホテルしか泊まれないので、ホテル代が高かったからです。夜行列車と船中泊を駆使し、宿泊費を節約した苦心の旅程でした。

ちなみにソ連の鉄道運賃は安く、手元の資料をみると、シベリア鉄道(ナホトカ~モスクワ)が3万円程度でした。

ロシア号

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チケットは現地受け取り

ソ連旅行では一度決めた日程の変更はほぼできず、現地に着いたら予約したとおりに動かなければなりません。

旅行者はホテルに到着したらバウチャーとパスポートを預けます。チェックアウトの際に返却され、あわせて次の都市への鉄道のきっぷを渡されます。公共交通のチケットは現地受け取りというわけで、外国人を監視下に治めておく仕組みに感じられました。

途中で予定が狂ったらさぞ面倒だろうと推察しますが、幸い筆者の場合は何事もありませんでした。

モスクワ

食糧不足が深刻で

ソ連末期は、食糧不足が深刻でした。そのため、レストランでメニューに記されていても、実際には食べられない料理も多く、旅行中は日々の食事に悩まされました。

筆者はシベリア鉄道でハバロフスクからモスクワまで乗車しましたが、食堂車でそれなりの料理が供されたのは初日だけで、途中の食材補給が乏しいのか、だんだんと提供される料理が貧相になっていきました。仕方ないので、駅での停車中に物売りからピロシキを買ったら、具が入っていませんでした。

ちなみに、以下は当時のシベリア鉄道「ロシア号」の時刻表です。2~3時間おきに停車しますが、停車時間は案外短く、買い物をする時間は限られていました。

シベリア鉄道時刻表
シベリア鉄道時刻表

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マクドナルドは大行列

当時、外国人は高級ホテルしか泊まれませんので、食事もホテル内のレストランでとることが多くなります。しかし、高級ホテルでもメニューは限られていて、とくに野菜が不足していました。葉物野菜をそれなりに食べられたのは、モスクワのホテルの朝食バイキングぐらいだったと記憶しています。

ひもじいので、モスクワにできたばかりのマクドナルドに足を向けてみましたが、数時間待ちという大行列で諦めました。

モスクワのマクドナルド

バルト三国への配慮

当時はソ連邦に属していたバルト三国に入ると、明るい雰囲気が漂い、食事事情も改善しました。同じソ連でも、ロシアとバルト三国では、だいぶ様相が異なるのです。

その理由として、ソ連は、バルト三国に対して「配慮」をしていたから、という話を聞いたことがあります。当時からバルト三国には独立運動があり、物資を優先的に供給することで、市民の不満を抑えようとしていたようです。

しかし、市民はそうした配慮よりも独立を選びました。ソ連がバルト三国の独立を承認したのは、筆者が訪れた翌年の1991年のことです。

エストニア

東欧とこんなに違うのか

国境を越えてポーランドに入ると、旅行者への対応が抜群によくなりました。当時はビザが必要でしたが、取得にバウチャーは不要で、入国してしまえば自由に旅行が可能。ゲストハウスを利用した格安旅行もできました。

ソ連ポーランド国境

すでにベルリンの壁も崩れていて、ポーランドでは連帯のワレサ議長が首相に就任していました。ポーランドが東側陣営を離脱しかけていた時期でしたが、東欧とソ連はこんなに違うのか、と驚いた記憶があります。

ポーランドでは、町で野菜を普通に売っていました。下のような写真を撮ったのは、そんなことが驚きだったからです。

ポーランド

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バックパッカーの視界に入らず

1989年のベルリンの壁崩壊後、東西冷戦が終了し、世界各地で旅行がしやすくなりました。振り返れば、1990年代は、歴史上最も自由に海外旅行ができた時代だったかもしれません。日本でもバックパッカーブームが盛り上がり、数多くの旅行者が海を渡りました。

しかし、ロシアはビザの問題もあり、メジャーな旅行先とならず、日本人バックパッカーの視界にはほとんど入っていなかったように思えます。ようやく2020年代にビザが簡素化され、航空便も充実しはじめたこの時期に、目を背けたくなるような戦争が起きてしまったことには、悲しみを禁じ得ません。

いまでも記憶に残るのは、シベリア鉄道で同室になった30代くらいの男性です。アフガニスタンの戦地で手術を受けたという、横腹の痛々しい傷跡を見せて、「君の兵役はまだかね」と筆者に尋ねました。日本では志願制だと答えると、「君はいい国に生まれた」とうなずき、「戦争なんてやるものじゃない」と吐き捨てました。

モスクワ

あの頃に戻ってしまうのか

ロシア人の多くは親切で、日本から一人でやってきた若者(当時の筆者)に優しく接してくれました。ロシアは自然あり、歴史ありと見どころも豊富で、旅行者の関心を集める土地であることに違いありません。

それだけに、今回の戦争は残念でなりません。ロシアは、あの頃のように、物不足で、外国人への監視が厳しく、旅行しづらい国に戻ってしまうのでしょうか。

いうまでもありませんが、レジャーとしての旅行は平和が前提です。平和が保たれていなければ、私たちは気軽に異国の地を旅することはできません。

ウクライナを巡ることの重大さからして、日本人が身構えずにロシア旅行ができるようになるのは、相当先でしょう。それがいつになるのかはわかりませんが、ロシアとウクライナに再び平和が訪れることを祈らずにはいられません。(鎌倉淳)

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