東日本大震災で不通が続いている気仙沼線柳津~気仙沼間と、大船渡線気仙沼~盛間の鉄道が廃止される可能性が高くなってきました。
2015年7月24日に、「大船渡線沿線自治体首長会議」及び「気仙沼線沿線自治体首長会議」が東京都内で開かれ、JR東日本が両線の鉄路復旧を断念する方針を正式に示しました。代替として、バス高速輸送システム(BRT)を存続・拡充することも提案しています。
出席した両線沿線の首長は、JRの提案に一定の理解を示しており、強い反対は出なかったようです。今後住民への説明を進めるなどの手続きを経て、BRTの存続を受け入れる可能性が高そうです。これにより、現在不通の柳津~気仙沼~盛間の鉄道は廃止となり、BRT転換となりそうです。
大船渡市長はJR提案を評価
会議には、大船渡、陸前高田、気仙沼の3市長と、JR東日本の深沢祐二副社長らが参加しました。JRは、総額1,100億円と見積もった巨額の復旧費や利用客の減少などを理由に鉄路復旧を断念し、BRTを存続させる提案を正式に表明。同時に、BRT新駅の設置や路線の延伸について、地域の要望があれば検討するとしました。
これに対し、地元首長は強い反対をしなかったようです。各紙報道をまとめますと、大船渡市の戸田公明市長は「非常に重たい提案。事業者としてベストの提案をされたと理解している」(読売)、「地元と協力し、考えていこうとの立場もよく見える」(毎日)、「BRTは震災前の鉄道より本数が多く、利便性が高まっている。JRは地域の要望に応じて新駅を設ける姿勢も見せており、私は提案を評価する」(日経)などと表明しています。
陸前高田市の戸羽太市長も「複雑な思いはあるが、仕方ない」(日経)、「地域の公共交通を確保する立場からすれば致し方ない」「(BRTは)これまで以上に拡大、利活用できる可能性があると示された。市民に理解してもらうしかない」(読売)と前向きな姿勢を見せています。南三陸町の佐藤仁町長も「現実を直視しなければならない。ルート変更に必要な費用を自治体が負担するのは無理だ。JRの考え方は一定程度理解できる」(日経)との考えを示しました。
気仙沼市長はさらなる説明を求めたが
一方、気仙沼市の菅原茂市長は「地域にとって価値の高いものでなければ解決にならない。今日の説明では不十分」(読売)とさらなる説明を求めました。「気仙沼線が果たしていた仙台へのアクセスの問題が解決されていないし、JRによる地域振興や観光振興も必要だ」(日経)などとしています。
ただ、気仙沼市の主張はそれほど強硬な内容でもありません。全体的にはJRによるBRT運行を評価する声のほうが大きいようです。背景には鉄路復旧のための総費用が1,100億円と巨額すぎることも関係しているでしょう。鉄道復旧の難題を追うよりも、BRTの路線拡大を求めた方が現実的で、地元住民の支持も得られる、という計算が働いているのかもしれません。
となると、柳津~気仙沼~盛間の鉄道は廃止となり、BRTへの正式転換が決まりそうです。そうなれば、1984年の三陸鉄道開業にともなって完成した三陸縦貫鉄道線は、全通30年余(実際は27年)で線路が途切れることになります。
「悲願八十年」は三十数年で失われた
ところで、気仙沼線といえば、宮脇俊三氏の名著『時刻表2万キロ』の最終章(第14章)が思い出されます。国鉄全線完乗をなしとげた宮脇氏が、気仙沼線柳津~本吉間をその開業日(1977年12月11日)に訪問するくだりです。
宮脇氏は、沿線の志津川町の気仙沼線に対する想いを「悲願八十年」と表現し、熱狂的な開業日の様子を伝えています。一方で、「地元の人たちは鉄道の開通を喜ぶが、みんなマイカーを持っているから、ほとんど乗ろうとはしない。国鉄側にしても列車を一日五往復しか運転させないのでは、大いに利用してくださいとは言えない」と冷静な視点を投げかけています。
さらに、「開通日のお祭が終われば、風光のよい三陸海岸の新線を、わずかな客を乗せたディーゼルカーが淋しく走るだけになるのだろう」と、あまり明るくない将来まで見通しています。結果的には、「悲願八十年」で全通した路線は、三十数年で失われてしまうわけですが、宮脇氏といえど、津波による被災が引き金で路線廃止になるとは思っていなかったのではないでしょうか。
ちなみに、気仙沼線柳津~本吉間は、国鉄が完成させた最後のローカル線です。1980年代に入ると国鉄によるローカル線の新線建設は停止され、次に開業が予定されていた油須原線はついに列車が走りませんでした。